1980年代半ばから日本プロ野球を代表するスターとして活躍してきたオリックスの清原和博選手が10月1日に引退試合を行いました。
PL学園に在学中、桑田真澄と共に”KKコンビ”を形成、”常勝PL”の柱石だった彼。
ドラフトでは熱望した巨人にフラれ、その巨人は早大進学を表明していた桑田を指名。清原の無念の涙が全国に放映されました。
心機一転、西武入りを決意した彼は、入団一年目から大活躍。秋山幸二選手と共に”AK砲”を形成し、大物ぶりを見せ付けます。この頃の清原は「王貞治超えを唯一達成出来る可能性のある男」とすら称されていました。1989年には史上最年少で100号本塁打達成、1992年には史上最年少で200号本塁打を達成しています。
しかし、常に三冠候補には挙げられるものの、タイトルには恵まれず、何時しか彼を「無冠の帝王」と称する人が出て来ました。
1997年からは巨人でプレイ。しかし、度重なる故障に泣かされる事になります。
そして、2006年からは故・仰木彬氏の招きで、オリックス入り。
清原選手の成績に関しては、2118安打、525本塁打、1527打点など充分に歴史的名選手と呼べるものですが、プロ入りしてから数年間の人々の期待からすれば、物足りない……と見る向きもあります。
例えば、本塁打に関しては、一度位はタイトルを獲得して欲しかったですが、1シーズン50本はおろか、40本以上を一度も記録した事がありません。
一方で、1944三振という不名誉なプロ野球記録を持っています。ただ、死球196も歴代1位で、怪我の多さも此処に原因があると見なす向きもあります。
ただ、彼が西武黄金時代の4番打者として輝いていた事は間違いありませんし、何か人を惹き付ける華のある人だった事も疑いようがありません。矢張りスーパースターだったと言えましょう。
巨人時代には”番長”などと称されていましたが、基本的には謙虚で礼儀も心得た人で、ファンへの心配りやチームメイトへの心配りを常に忘れない人でした。
だからこそ、彼を慕う多くの人々が引退セレモニーに集ったのでしょう。あのイチロー選手もその為に急遽かけつけた程です。
巨人に移って以降はしばしば故障に泣かされ、本人も不本意なところはあったでしょうが、一野球人としては幸せな幕引きを迎えられたのではないでしょうか。
今はただただ「お疲れ様でした」と言うのみです。
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